警備業における事業の目的
夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。
〜吉田松陰〜
警備業における法人IMSの事業目的は、
「警備業の経験と実績のある多数の同じ志(煩悩)を持つ人財が、将来の夢や希望(絶対的な幸福)を抱いて存分に力(慈悲)を発揮させるため。(他にも教化すること)」
である。
ここでいう「同じ志」とは、自らの経験と実績を生かし経営者を目指す思いのことである。これは人の持つ欲求(煩悩)の一つにすぎず、けっして大いなる志とは言えない。煩悩のままに経営者に成りたいといっても、未経験な人にとってはハードルも高くリスクも大きい。また現実問題として、一般に社員を快く独立推奨している経営者は警備業界において皆無である。諸々の現実的理由から経営者に成りたいという志は挫折しやすい。そのうえ何のために経営者に成りたいのかという夢や希望が、不純で曖昧なものであれば、仮に起業できたとしても、自己の相対的な幸福を求めているにすぎず、人をあざむき・疑い・むさぼり、必然的に利己的となり飢えと渇きに苦しむ亡者、いわゆる餓鬼となろう。
可愛い女の子と一時間一緒にいると、一分しか経っていないように思える。
熱いストーブの上に一分座らせられたら、どんな一時間よりも長いはずだ。
相対性とはそれである。
〜アインシュタイン〜
(特殊相対性理論における光速度不変の原理は相対ではなく絶対である。)
相対的幸福とは環境や条件によってたやすく変化する一時的な快感(優越感や満足感)であり、時間の経過とともに瞬時に快感は消え、また新たな快感を求め続ける刹那的で利己的な幸福概念である。この繰り返しでは煩悩のままに際限なく欲求を満たす必要があるため、必ず苦悩し続けることになる。この悪しき循環を断ち切るには、将来の夢や希望が絶対的な幸福でなければならない。
コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、それを発見しつつあった時である。
幸福とは生活の絶え間なき永遠の探求にあるのであって、断じて発見にあるのではない。
〜ドストエフスキー〜
絶対的な幸福とは、一時的に得られる幸福感はなく継続的に得られる幸福感である。それは環境や条件の変化に左右されない。では絶対的幸福とはどのような状態なのか?例えて云うと、
1.競馬での万馬券獲得や宝くじで高額当選したときの快感が永遠と続く。
2.ゴルフでのドライバーショットが高結果だった時の快感が永遠と続く。
3.オリンピックで金メダルを獲った快感が永遠と続く。
などといった状態なのだ。「チョー気持ちいい!」という発言が流行語となったが、この状態がずっと続くありさまを想像できるだろうか。まさに想像を絶する快感であろう。偶然であれ、努力の結果であれ、あるいは薬物による幻覚であれ、相対的幸福を維持させ絶対的幸福とすることはできない。
人生には、二つの道しかない。
一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。
もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きることだ。
〜アインシュタイン〜
絶対的幸福とは、目的に近づきつつある人生において苦労も喜びも、生活のすべての出来事が奇跡であるかのように生きることをいうのである。ではどうすればそのような生き方ができるのだろうか?「気の持ちよう」「心の持ちよう」「考え方次第」などと、様々に言い方はあるがいずれも絶対と同義ではない。
事業の目的の後部に「力を発揮させる」とあるが、どうして「力を発揮する」のではないのだろうか?
理由は「する」であると我のみの単数形となり、「させる」でなければ我と我が友の複数形にならないからだ。つまり単数形の自我ではなく、複数形の大我でなくては「絶対」と同義にならない。ここにまことの意味が込められている。さらに“力”とは慈悲のことである。慈悲とは「いつくしみあわれむ」と書き、他者の苦しみを抜いて福楽を与える「抜苦与楽」と同義語である。「発揮させる」とは自らが他にも教化するということ。教化とは「教導化益」の略称で、徳をもって人々を正しく(善に)導くことを意味し、他者に押し付けるものではなく、自らの体験・姿をもって他者を導くものであり、無論強制するものではない。
逆説からいうと、自我の成長が目的であるならば慈悲なき思い上がった主観的判断によって環境や条件の変化に左右され相対的結論しか見いだされない。しかし大我の成長が目的であれば我と我が友のために慈悲ある客観的判断によって、いかなる環境や条件の変化にも左右されない絶対的結論が見いだされる。事業の目的は言い換えれば、
「警備業を通して我と我が友は、大いなる希望を抱き、苦楽を共にして前進しゆく」
という覚悟の断言なのだ。
幸福とは、考えること、言うこと、することが調和している状態である。
〜ガンジー〜
さらに事業の目的における( )内の本意は、
「煩悩のままの大我は、絶対的幸福を確信し、慈悲をもって教化していく」
であり、そのまま人生の目的を意味している。
これを因として我らの本分、「仲間とともに幸福な人生を生きぬくこと」となる。
だから我と我が友の成長を決して疑ってはならない!嘆いてはならない!悔やんではならない!あきらめてはいけない!逃げてはいけない!何度転んでも立ち上がればいいのだ!何度失敗してもやり直せばいいのだ!勇気を奮い起こし、知恵を振り絞り、大音声で目的を宣言し、挑戦し、戦い続け、それを乗り越えていくことこそ、最高にして最上の奇跡的人生である。人は時にそれを「勇者」と呼び、時にそれを「奇跡」と讃嘆し、時にそれを「偉大」と敬う。私はIMSの発足から現在に至るまで、いつもこのように考え宣言し実行してきた。そしてこれからもこの命ある限り、大音声で宣言し実行していく。
生きるうえで最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。
転ぶたびに起き上がり続けることにある。
私は学んだ。
勇気とは恐怖心の欠落ではなく、それに打ち勝つところにあるのだと。
勇者とは怖れを知らない人間ではなく、怖れを克服する人間のことなのだ。
〜ネルソン・マンデラ〜