人類共通の目的
不幸になりたいと思っている人はいるのだろうか?
生まれた時から死にたい人はいるのだろうか?
平和を望まない人はいるのだろうか?
飢えて死にたい人はいるのだろうか?
天変地異を望む人はいるのだろうか?
いないのであれば、人類共通の目的は同じである。
現実の世界は違って見える
ならばなぜ、世界で起きる出来事があまりにも目的から逸脱しているのだろうか?
何時の時代も地域・国で紛争・戦争が絶え間なく続いている。
「人間は元来争いごとが好きだ」という人がいるが、ならばこの世はとっくに存在しないのではないか?
そもそもこの世が存在しなければ、あらゆる目的は無意味である。
目的が同じはずなのに、わかり合えない事があるのだろうか?
目的が同じはずなのに、判断が相反する事があるのだろうか?
残念ながら、あようである。
しかし、この世が今も存在しているのは何故なのだろうか?
比較対象が無ければ”幸福”を実感できない?
この様に思考すると、問題点が浮き彫りになってくる。
幸福になりたいのに、不幸な人がいる。
死にたくないのに、自ら命を絶つ人がいる。
平和を望んでいるのに、戦争をしている。
飢えたくないのに、飢えている人がいる。
安穏でありたいのに、天変地異が起きる。
よく見ると、緑字の部分は自分の事で、赤字の部分は一部の他人の事のようだ。
緑字が人類共通の目的であるなら、赤字はその目的を実感するために存在しているようだ。つまり目的を実感するためには、相反した比較が必要なようにも見える。
”幸福”と一言で言っても、”不幸”な人と比べなければ、それを実感できないようだ。
これは人類のカルマなのだろうか?
畜生ですら、他者と比較して自身が満足することは無い。
なのに人類は、比較対象が無ければ”幸福”を実感できないというのか?
残念ながら、そのようである。
今もこの世が存在しているのは、比較対象を必要としているからなのか?
目的が同じでもプロセスは二通りしかない
①一つは、あえて一部の他人を不幸にして、自身が幸福を実感する方法。
②二つは、他人と共に幸福を実感する方法。
これを見て、誰もが②を優れていると評価すると思う。
しかし、権力者にとって①は簡単な方法だが、②は至難の業である。
①は資金や権力を使えば簡単に実現できるが、②は強力な忍耐と慈悲が必要になるので、最初からそれを持ち合わせないで権力者となった人間にとって、②の方法を用いることは不可能なのだ。
①は世間で囁かれる陰謀の事であり、②は哲学の事である。
①は自分だけが目的を実感する方法であり、②は自他ともに実感する方法である。
あなたはどちらを選ぶ?
選択の自由はそれぞれにある。
ただ言える事は、①を選択した結果得られる実感に実体はなく、永遠に心が満たされることは無い。
しかし②を選択した場合、苦難の連続となるが、その充実感を超えるものは存在しなくなる。
どうか皆さんは、安易な方法で他者を傷つけ目的を成就する方法ではなく、忍耐と慈悲をもって挑戦し続け、目的を成就することを願います。