どうして文句を言うのか?
人は何故、不満や不安を他人に向けるのだろう?
文句を言ったところで、何も変わらない事ぐらい知っているのに。
まったく関心のない他人だったら、どうだろう?
それなら、不満を感じる事さえないだろう。
地球の裏側の誰かが何をしようと、何も感じない。
知る由も無いからだ。
ならば、文句が言いたくなる相手は誰なのか?
関心があって、自分に何らかの影響を及ぼす他人。
すべては、自分の心を安定化させる反応に過ぎない。
”相手のために”・・・と思い込みたい心は、慢心なのかもしれない。
”文句を言う”のは、傲慢の現れではないだろうか。
私も傲慢
傲慢な私は以前、文句ばかり言っていた。
経験上、何も解決したことは無い。
少しばかり、スッキリした程度だった。
しかし最近のYouTubeなどでは、文句の言いたい放題だ。
それらはSNSなどで、どんどん伝播され拡散していく。
世間への影響力も、それなりに拡大したと思う。
しかし、ほとんどの内容は文句ばかりで何の解決策もない。
第三者的に聞いていると、自分の愚かさを思い出される。
単に視聴回数を増やして、金儲けに徹しているとしか思えない。
文句や批判は無駄
「あの人がこんな事を言った・あんな事をした」などと、犯罪ならともかく単に口が過ぎたか、多少態度が悪かった程度の話ではないだろうか。
そんな事にいちいち過激に反応して、同調圧力を拡大させても無駄である。
そもそも文句を言われ慣れている人も、傲慢な人だからである。
私がそうだから、よくわかる。
批判・非難をする人は”頭の悪い人”、”暇な人”ぐらいにしか、思っていない。
どうするのが良いのか?
結局、文句を言う側・言われる側、どちらも傲慢だという事だ。
これを前提に理解すれば、どうすれば良いかがわかる。
本当に真剣に訂正・改善させたいのであれば、文句ではなく提案が必要だ。
傲慢な人は、意外に提案は聞くものだ。
その提案をディスカッションすれば、おのずと訂正・改善へとつながる。
しかし傲慢である限り、ろくな提案が思い浮かばないのも現実である。
したがって極論は、他人を尊重する謙虚さを磨く以外に解決方法はない。